BLが好きです。わりといい年の大人です。詳細は「ごあいさつ」記事をご覧ください。
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2026.05.09 Saturday
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もう2月が終わるけど2013年を振り返る
2014.02.27 Thursday
2014年の2月が終わると言う事実についていけてない系オタクです。
『彼氏彼女の事情』の中で雪野のお父さんが、「高校生の1ヶ月は大人になってからの1ヶ月よりも遥かに貴重なものですよ」的なことを言ってたことを思い出しました。高校の頃って今が永遠に続くような気がして過ごしていたわけだけど、大人になった今ではこの状況がいつまでも続かない、いきなり終わるかもしれないと知っているのです。
昨年の後半、数年ぶりのお引越しをしました。
札幌⇒石狩⇒千葉⇒東京ときて名古屋です。名古屋は水が美味しくて札幌と同じくらいのにぎわいの街なのでとても住みやすいです。そしてたぶん北海道の方がみんな無茶な運転してるから言うほど交通マナー悪くない。
引越しが決まってから引越しまではアレコレ手続きをしたりご飯食べたりそこそこ忙しくてあっという間でした。
毎年、私的「このBLがやばい!」をやりたかったのに2013年はこのブログのことをすっかり忘れてしまっておりました。
なので、BLというくくりをはずして昨年印象に残ったものざーっと。
◆映画 「風立ちぬ」
自分のdropboxの文書フォルダを開いたらこの映画について書いた文章がいっぱい入っていて引きました。
とにかくずっと二郎と菜穂子のこと考えてました。
友達がこの映画のアンチで二郎も菜穂子も大っ嫌いだそうです。
彼女は現実的な考え方をする子なので、仕事中にお客さんを観察してアレコレしてる小説を読んだ時も「まじめに仕事しろ」と怒っていました。
逆に二郎に共感するのって、趣味とか夢に没頭して世間的にはちょっとイタい人かもなあと思いました。二郎は趣味と実益を兼ねて飛行機作りで社会的地位を築いたけど、こういう人は突出した才能が無ければイタい人で終わってしまいそう。ただ、自分の世界が守られれば良いので他人と競い合ったりもしなくてそれなりに穏やかな人と思われていそうな。
◆黒子のバスケ
ついにサークル参加しました。
本を発注する前は枕元に紙のサンプルをぺたぺたたくさん貼って表紙どれにしよう~と浮かれていたのに表紙の絵も本文も残念だしきらびきというすごくかわいい紙なのに全面に色を載せてクリアPPかけたらもっと残念な感じになってしまいました。あー色もオンデマでRGBのくせにあの色使っちゃったしもうバカバカ!と自分を責めたりしましたがイベントは楽しかったです。
数年ぶりに友達にも会えました。
今年は3/30のDC大阪に出ます(宣伝)
帝光編はもう、自分的には雨の中で青峰君と黒子君が話してるところがクライマックスすぎてなんだか色々と考えてしまい薄い本めくる手も止まる勢いでした。今も読んでますけど。
自分の中では黒子君が「自分でシュートしたい」と言ったのってすごくなんか、禁忌な部分だと思っていたのでそれを言った、言わせた青峰君がほんとショックで。自分が傷ついている時とはいえ、そういうこと言っちゃってそれ言わせちゃうんだーという。他のキャラだったら言ってもいいけど、青峰君がなあ…という。なんとも言えないもやもやした部分が残りっぱなしです。
作品としては良いけどキャラ厨的には喜べない。
洛山戦、今年中には決着つくのだろうけど初期の黒子君の「どんな不利な状況になっても相手側に隕石が落ちるかもしれないじゃないですか」を信じて、誠凛の勝利を期待しています。隕石を信じているわけではないです。
あとすごくびっくりしたのが、読んですばらしい本だ!この本をもっと売るために出版社か取次ぎに転職しなきゃ!と無駄に息巻いた木地雅映子の『あたたかい水の出るところ』が2012年の本で、つい最近読んだつもりだったのでタイムスリップしてきたみたいな気分でしょんもりしました。
私の転職熱はかない。
ドラマ『リッチマン、プラウーマン』も2012年の放映でしたね。2013年にはこれのスペシャル版が放映されていてほんとうに嬉しかったです。ひっさびさに再会して、毎日のようにネットで顔を見ていたはずなのに、実際に顔を見た瞬間に好きすぎて恥ずかしくなっちゃってキャーッと逃げたくなってる石原さとみの照れたところがすごいかわいいなと思いました。それからNYをデートしている場面も。いちいち、この女優さんは「好きな気持ち」を本当に好きで好きでしょうがないって顔して演じるからすばらしいですね。共演者の人、この子本当に自分が好きなんじゃないかって血迷ったりしないのかな。自分だったらします。
だから、同年代のイケメンじゃなくて、うんと年上とか、年下とか、同性とか、いっそモンスターとか、ありえないだろって相手に対してどう恋する演技するのかが気になる女優さんです。
人を好きになるパワーをたくさん持った役者さんってすてきだな。
他にも何かあったかもしれないのですがいまいち覚えていないです。
『彼氏彼女の事情』の中で雪野のお父さんが、「高校生の1ヶ月は大人になってからの1ヶ月よりも遥かに貴重なものですよ」的なことを言ってたことを思い出しました。高校の頃って今が永遠に続くような気がして過ごしていたわけだけど、大人になった今ではこの状況がいつまでも続かない、いきなり終わるかもしれないと知っているのです。
昨年の後半、数年ぶりのお引越しをしました。
札幌⇒石狩⇒千葉⇒東京ときて名古屋です。名古屋は水が美味しくて札幌と同じくらいのにぎわいの街なのでとても住みやすいです。そしてたぶん北海道の方がみんな無茶な運転してるから言うほど交通マナー悪くない。
引越しが決まってから引越しまではアレコレ手続きをしたりご飯食べたりそこそこ忙しくてあっという間でした。
毎年、私的「このBLがやばい!」をやりたかったのに2013年はこのブログのことをすっかり忘れてしまっておりました。
なので、BLというくくりをはずして昨年印象に残ったものざーっと。
◆映画 「風立ちぬ」
自分のdropboxの文書フォルダを開いたらこの映画について書いた文章がいっぱい入っていて引きました。
とにかくずっと二郎と菜穂子のこと考えてました。
友達がこの映画のアンチで二郎も菜穂子も大っ嫌いだそうです。
彼女は現実的な考え方をする子なので、仕事中にお客さんを観察してアレコレしてる小説を読んだ時も「まじめに仕事しろ」と怒っていました。
逆に二郎に共感するのって、趣味とか夢に没頭して世間的にはちょっとイタい人かもなあと思いました。二郎は趣味と実益を兼ねて飛行機作りで社会的地位を築いたけど、こういう人は突出した才能が無ければイタい人で終わってしまいそう。ただ、自分の世界が守られれば良いので他人と競い合ったりもしなくてそれなりに穏やかな人と思われていそうな。
◆黒子のバスケ
ついにサークル参加しました。
本を発注する前は枕元に紙のサンプルをぺたぺたたくさん貼って表紙どれにしよう~と浮かれていたのに表紙の絵も本文も残念だしきらびきというすごくかわいい紙なのに全面に色を載せてクリアPPかけたらもっと残念な感じになってしまいました。あー色もオンデマでRGBのくせにあの色使っちゃったしもうバカバカ!と自分を責めたりしましたがイベントは楽しかったです。
数年ぶりに友達にも会えました。
今年は3/30のDC大阪に出ます(宣伝)
帝光編はもう、自分的には雨の中で青峰君と黒子君が話してるところがクライマックスすぎてなんだか色々と考えてしまい薄い本めくる手も止まる勢いでした。今も読んでますけど。
自分の中では黒子君が「自分でシュートしたい」と言ったのってすごくなんか、禁忌な部分だと思っていたのでそれを言った、言わせた青峰君がほんとショックで。自分が傷ついている時とはいえ、そういうこと言っちゃってそれ言わせちゃうんだーという。他のキャラだったら言ってもいいけど、青峰君がなあ…という。なんとも言えないもやもやした部分が残りっぱなしです。
作品としては良いけどキャラ厨的には喜べない。
洛山戦、今年中には決着つくのだろうけど初期の黒子君の「どんな不利な状況になっても相手側に隕石が落ちるかもしれないじゃないですか」を信じて、誠凛の勝利を期待しています。隕石を信じているわけではないです。
あとすごくびっくりしたのが、読んですばらしい本だ!この本をもっと売るために出版社か取次ぎに転職しなきゃ!と無駄に息巻いた木地雅映子の『あたたかい水の出るところ』が2012年の本で、つい最近読んだつもりだったのでタイムスリップしてきたみたいな気分でしょんもりしました。
私の転職熱はかない。
ドラマ『リッチマン、プラウーマン』も2012年の放映でしたね。2013年にはこれのスペシャル版が放映されていてほんとうに嬉しかったです。ひっさびさに再会して、毎日のようにネットで顔を見ていたはずなのに、実際に顔を見た瞬間に好きすぎて恥ずかしくなっちゃってキャーッと逃げたくなってる石原さとみの照れたところがすごいかわいいなと思いました。それからNYをデートしている場面も。いちいち、この女優さんは「好きな気持ち」を本当に好きで好きでしょうがないって顔して演じるからすばらしいですね。共演者の人、この子本当に自分が好きなんじゃないかって血迷ったりしないのかな。自分だったらします。
だから、同年代のイケメンじゃなくて、うんと年上とか、年下とか、同性とか、いっそモンスターとか、ありえないだろって相手に対してどう恋する演技するのかが気になる女優さんです。
人を好きになるパワーをたくさん持った役者さんってすてきだな。
他にも何かあったかもしれないのですがいまいち覚えていないです。
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Free!感想文
2013.09.28 Saturday
京都アニメーションのアニメ、Free!最終回。
原作となっている作品はあるもののアニメ本編はオリジナルなので展開もわからなくて、公式からのサービス情報にワクワクしながら放映を待っていました。
このアニメへの期待ってほぼ、水の描写、泳ぐ場面の爽快さで、これはあの作画が丁寧な京アニさんだからでした。
京アニの作品って、上手いとか斬新とかより、ひたすら「丁寧」な印象。例えば物議をかもした涼宮ハルヒの憂鬱のエンドレスエイト。アニメって演出やコンテで、同じ話もこんな風に変わるんだ!とびっくりさせられた。ちなみに2週目が一番好き。
この「Free!」は水中の演出にも別で監督をつけているというし、絶対にハズさない確信を持って期待していて、案の定、第一話の冒頭でやっぱりと。
自分は怜中心に観ていたので、最終回には胸熱。
始まった頃は、正直言って、第一話に、本当の大会じゃなくても回想か何かで競泳のシーンを入れた方が良かったんじゃないか、泳ぐシーンをもっと増やした方が良いんじゃないかと思ってた。
それが、大会が始まって個人戦。
あの、余計なモノローグや凝った演出の無い、泳ぎだけを描いた場面で、ああこのためのほのぼの日常だったのだと納得させられました。ほんと、水着買いに行って見せ合いっこしてる場合じゃないし夜に嵐の海に泳ぎに出てる場合じゃねーよと思わなくは無かったんだけど。
怜ちゃんの役割は犠牲ではなかったと思うんですよ。
怜ちゃんの役割は犠牲ではなかったと思うんですよ。
その前の回で怜ちゃんがずっとうちに秘めていた、「よく知らない”リンチャン”と比べられていることへの苛立ち」「数合わせの部員」であることへの煩悶が噴出したからこそ意味のあるものでした。
3人も”凛ちゃん”も、そして江も、みんなが「あの4人」でのリレーを見たい、やりたいと思っていた。怜が加わっても、心のどこかで思っていた。
あの4人は、思い出の中できゃっきゃしていて、水泳部に対する思い入れも、またあのスイミングスクールみたいにという意識があったんじゃないかな。だから、元のスイミングスクールにいなかった怜ちゃんははみ出しっ子なわけで。
ましてや、陸上時代の練習の賜物で素質はあったにせよ、水泳を始めたばかりでいきなり全国の舞台って。他ならぬ怜ちゃん自身が、凛に全国の舞台のリレーを譲るっていうなら、その方が良いかなって…
他の人の感想で、怜ちゃんが犠牲になって凛が他のメンバーと楽しくリレーが出来たみたいなのが多くて、ちょっとはぁ?となったのでした。
この4人は元は仲間だったけれど、凛だけは群れを離れて鮫塚という別のチームで泳がなければいけない。
「記録や順位に興味が無い」と言っていた遙の言葉も、他ならぬ凛との競争を避ける言葉だった。
その、幼少期との別離と競争社会への旅立ちのための卒業式があのリレーだったのではないかと。
真琴や渚が泳いでいる最中に見たのも、過去じゃなくて、これから泳いでいく未来だし、渚の見た中には怜ちゃんのイメージモチーフである蝶も泳いでいた。
私は、最終回のあの1回のリレーにそこまでの夢を持っていなかった。
最終回へ至るまでのほのぼの水泳部の日常の描写が、たった一度の大会の重大さを感じさせなかった。話的な見せ場であることは間違いが無いけど、出来たばかりの岩鳶高校水泳部にとっては通過点のひとつであるとよくわかっていた。
明日からも一緒に泳げるし、来年も大会はあるという日常の中の1コマで終了してしまってる意識だった。
だから、あのリレーに怜ちゃんがいないことを悲観することは無かったです。
最後に凛は、鮫塚へと戻っていった。
今度こそ、選手として、記録や順位を出す道具になるために。御子柴先輩、ほんとうに器の大きい高校生だなと思う。
仲間としての水泳部じゃない、凛に、装置としての居場所を鮫塚学園水泳部に与えた。あの形がたぶん、群れと離れた凛にとっては最良の立ち位置だと思う。
凛の方も、似鳥を下の名前で呼んで「自分とオマエ達は仲間じゃない」「仲間はあのリレーのメンバー達だ」という子供っ
ぽい感傷を抜けてちゃんと鮫塚のメンバーに歩み寄ることを始めた。
ぽい感傷を抜けてちゃんと鮫塚のメンバーに歩み寄ることを始めた。
エンドカードのsee you next summer!が本当になるといいな。
今度こそ、何のしがらみも持たず真剣に勝負する遙と凛が見たい。
納得の出来る泳ぎをしている怜ちゃんも見たい。
余談だけど、これがBLアニメなのかそうでないかと言われている点について。
BL好きから言わせると、これBLじゃないよね。
矢印がいろんな方向から出過ぎてる。
乙武さんの騒動と児ポ法への所感
2013.05.30 Thursday
先日話題になっていた、乙武さんとイタリアンレストランの件。
非常に読みやすいコラムがありました。
小田嶋隆さんのコラムはいつも、時勢について自分がもやもやして腑に落ちていないことをすっきりさせてくれるのでよく読んでいます。
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明
人権はフルスペックで当たり前
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20130523/248527/ (日経オンライン)
乙武さんは、何度かプライベートで見かけたことがあります。階段しかない2F建のお店の2Fですれ違ったり、入り口が1段高くなったお店の前ですれ違ったり、一人でレジでお会計しているところを見かけたりしたこともあります。一人で公道を、他の人よりスピードを出して反対方向に歩く人を避けながらすいすい歩くのとすれ違ったこともあります。
もちろん乙武さんは大ベストセラーの著者であり、一般的な車椅子利用者よりは周りが手厚く補助してくれる面もあるのでしょうが、お店の階数を予約時に確認しなかったにしろ、確認はしたが手伝ってもらえると当たり前に思ったにしろ、自力で階段を昇れないということを意識せずにいられる環境というのは悪くないと思います。
自分がこの問題で気になっているのは、乙武さんが店名を具体的に出して状況をツイートしたことについて、批判的な意見の多いことです。
ツイッターというのは愚痴を吐き出す場所であっても良いと思います。ただの愚痴で終わらせるなら
「車椅子だからってせっかく予約したのに店に入れてもらえなかったムカつく!」
かもしれません。自分が見た限り、乙武さんのあの晩のツイートはたしかに怒って冷静さを欠いていました。それを、愚痴ではなく問題提起の形にしたことで話が大きくなってしまったのだと思います。
ただ、フォロワーが○人いるから具体的な店名を挙げたのはよくない、という意見にはどうしても賛同できかねます。
だって美味そうで、評判が良くて、乙武さんのツイートを見た限り雰囲気も隠れ家っぽくて素敵なお店なんだから。
自分は車椅子じゃないし、体力は有り余っているわけじゃないけれども細い階段を2Fまで上がることもわけないです。機会があれば行きたいです。
それを「影響力のある人が店名を出すことで店にいやがらせされるかもしれないんだから、有名人が固有名詞を出す際には配慮が必要」というのは、おかしい。少なくともあの文脈から、この店には嫌がらせをしても良い、なんて思考ができる人がいればその人はただ嫌がらせをしたい人です。たとえ有名人でない人のツイートだったとしても嫌がらせをします。
話はすこし逸れますが、今話題の児ポ法。
あれの問題点は表現の自由の規制ではなく、議論すべきところをずらしているところです。たとえば、小さな女の子の出ている漫画を読むことと、小さな女の子をレイプすることは全く別の事です。ロリコン漫画を読む事は読書のひとつで、レイプは陵辱行為のひとつです。それを、小児生愛者と言うカテゴリで分けてしまうのが差別です。陵辱者は強姦だけでなく傷害や略奪行為をする可能性があります。漫画を読むのが好きな人は、ロリコン漫画もファンタジーも時代ものも読む可能性があります。漫画を読む人でロリコン漫画を好む人が強姦をすることもある可能性があるから、漫画を読まないように規制しよう!としたところで、どれだけの成果が出せるだろう?
たしかに、規制しないよりした方が可能性をわずかでも減らせる。こういったことは、被害者が1人でもいなくなるのなら効果があったと思えます。
けど、実際に減らせるのは漫画を読む人で陵辱者が減るわけではないのです。
他人を殴るのが好きな人、強姦するのが好きな人、嫌がっているところを見るのが楽しいと思える人。私は、そういう人の方が危険だと思います。規制してほしいです。けど、規制しきれないのです。趣味と言う縦糸と、快感を得ることのできる行為の横糸では、横糸の方が圧倒的に長く、全ての縦糸に紐づいているため、規制するためのカテゴライズが出来ないのです。
先日の乙武さんの出来事に当てはめると、店の具体名を挙げずにただの愚痴で終わらせていれば、その店に嫌がらせをする人は減るかもしれない(店を特定しようとする人はいたと思います)、けど、嫌がらせをするのが趣味の人は減らないのです。むしろ、他の店に「この店が入店を拒否したんじゃないか」と電話しかねない。
問題は、そんな風に善意でもって店に嫌がらせをしても良いと言う思考が蔓延していることです。
そして、嫌がらせはしないけど、その思考を当たり前に受け止めている、善良な人がたくさんいると言うことだと、私は思います。
店の具体名を出したことを何とも思わずにそのツイートを読んだ者としては、それが差別かどうかの問題よりも、乙武さんが信者をけしかけた、みたいに言われていたことの方がよっぽどショックな出来事でした。
非常に読みやすいコラムがありました。
小田嶋隆さんのコラムはいつも、時勢について自分がもやもやして腑に落ちていないことをすっきりさせてくれるのでよく読んでいます。
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明
人権はフルスペックで当たり前
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20130523/248527/ (日経オンライン)
乙武さんは、何度かプライベートで見かけたことがあります。階段しかない2F建のお店の2Fですれ違ったり、入り口が1段高くなったお店の前ですれ違ったり、一人でレジでお会計しているところを見かけたりしたこともあります。一人で公道を、他の人よりスピードを出して反対方向に歩く人を避けながらすいすい歩くのとすれ違ったこともあります。
もちろん乙武さんは大ベストセラーの著者であり、一般的な車椅子利用者よりは周りが手厚く補助してくれる面もあるのでしょうが、お店の階数を予約時に確認しなかったにしろ、確認はしたが手伝ってもらえると当たり前に思ったにしろ、自力で階段を昇れないということを意識せずにいられる環境というのは悪くないと思います。
自分がこの問題で気になっているのは、乙武さんが店名を具体的に出して状況をツイートしたことについて、批判的な意見の多いことです。
ツイッターというのは愚痴を吐き出す場所であっても良いと思います。ただの愚痴で終わらせるなら
「車椅子だからってせっかく予約したのに店に入れてもらえなかったムカつく!」
かもしれません。自分が見た限り、乙武さんのあの晩のツイートはたしかに怒って冷静さを欠いていました。それを、愚痴ではなく問題提起の形にしたことで話が大きくなってしまったのだと思います。
ただ、フォロワーが○人いるから具体的な店名を挙げたのはよくない、という意見にはどうしても賛同できかねます。
だって美味そうで、評判が良くて、乙武さんのツイートを見た限り雰囲気も隠れ家っぽくて素敵なお店なんだから。
自分は車椅子じゃないし、体力は有り余っているわけじゃないけれども細い階段を2Fまで上がることもわけないです。機会があれば行きたいです。
それを「影響力のある人が店名を出すことで店にいやがらせされるかもしれないんだから、有名人が固有名詞を出す際には配慮が必要」というのは、おかしい。少なくともあの文脈から、この店には嫌がらせをしても良い、なんて思考ができる人がいればその人はただ嫌がらせをしたい人です。たとえ有名人でない人のツイートだったとしても嫌がらせをします。
話はすこし逸れますが、今話題の児ポ法。
あれの問題点は表現の自由の規制ではなく、議論すべきところをずらしているところです。たとえば、小さな女の子の出ている漫画を読むことと、小さな女の子をレイプすることは全く別の事です。ロリコン漫画を読む事は読書のひとつで、レイプは陵辱行為のひとつです。それを、小児生愛者と言うカテゴリで分けてしまうのが差別です。陵辱者は強姦だけでなく傷害や略奪行為をする可能性があります。漫画を読むのが好きな人は、ロリコン漫画もファンタジーも時代ものも読む可能性があります。漫画を読む人でロリコン漫画を好む人が強姦をすることもある可能性があるから、漫画を読まないように規制しよう!としたところで、どれだけの成果が出せるだろう?
たしかに、規制しないよりした方が可能性をわずかでも減らせる。こういったことは、被害者が1人でもいなくなるのなら効果があったと思えます。
けど、実際に減らせるのは漫画を読む人で陵辱者が減るわけではないのです。
他人を殴るのが好きな人、強姦するのが好きな人、嫌がっているところを見るのが楽しいと思える人。私は、そういう人の方が危険だと思います。規制してほしいです。けど、規制しきれないのです。趣味と言う縦糸と、快感を得ることのできる行為の横糸では、横糸の方が圧倒的に長く、全ての縦糸に紐づいているため、規制するためのカテゴライズが出来ないのです。
先日の乙武さんの出来事に当てはめると、店の具体名を挙げずにただの愚痴で終わらせていれば、その店に嫌がらせをする人は減るかもしれない(店を特定しようとする人はいたと思います)、けど、嫌がらせをするのが趣味の人は減らないのです。むしろ、他の店に「この店が入店を拒否したんじゃないか」と電話しかねない。
問題は、そんな風に善意でもって店に嫌がらせをしても良いと言う思考が蔓延していることです。
そして、嫌がらせはしないけど、その思考を当たり前に受け止めている、善良な人がたくさんいると言うことだと、私は思います。
店の具体名を出したことを何とも思わずにそのツイートを読んだ者としては、それが差別かどうかの問題よりも、乙武さんが信者をけしかけた、みたいに言われていたことの方がよっぽどショックな出来事でした。
「共感」という不自由
2013.02.16 Saturday
数ヶ月前、
映画ヱヴァンゲリヲンの上映後に三々七拍子をやろうと言うpostがTwitterでまわる
↓
碇シンジ役の声優が「やめてほしい」と発言する
と言う流れがあった。
(たぶん三本締めのことなんだと思うけど)
映画館で映画を観るのであればエンドロールが終わっても場内が明るくなるまで余韻に浸っていたいのがアニメオタクじゃないかと思っていたので、どうしてこう言う発想に至ったのだろうと不思議だった。
「オタクは自分が楽しければ作品の意図なんてどうでも良いのか」「作品の雰囲気を壊すなんてファンじゃない」と言う意見も見られたけど、それだけだろうか。
よく、マイナスな感想に「共感できなかった」と言う語句を見かけることがある。
そんなに共感できることが大事なのか?と思う。
共感できるできないは作品の楽しさとは全く関係ないのではないかと。
共感できるできないで作品を語ることは、泣けるか泣けないかで語るくらい無意味なことなのではないかと思う。
現に、オタクはちょっと前まで「理解されないこと」がステイタスでもあった。
万人に評価されない、作者の意図が(自分以外に)理解できない、自分には発想できない行動を起こすキャラクターがかっこいい。
自分はまさに、この世代だった。
他の人には駄作でも、自分にとっては名作だからこの良さがわからない人達が可哀想、くらいは考えることがある。
今はこう言う考えは厨二病と呼ばれたりするんだけどね。
先日のエヴァの件で言えば、エヴァはもうアニメオタクの知る人ぞ知る作品では無くなっている。アニメに興味の無い人でも観ていたりするし、とっくにアニメを卒業した人達もこの映画だけは観に行こうかなと話しているレベルの作品になっている。
だからオタクの、マイノリティであることによる優越感を満たすためのアニメでは無くなっていて、とにかく他の人より自分が「エヴァが好きなんだ」と表明したい作品になっている。
それからこれは全くの想像だけれど、このヱヴァの初回上映であればプレスの入る可能性もある。マスメディアのいる状況で、映画の上映後に三本締めや主題歌の大合唱が始まれば、この作品の影響力を見せつけられると言うもの。※ただしアニヲタのキモさも同時に見せつける結果になる諸刃。
マスメディアあるいはソーシャルメディアに対して、自分がこの作品をここまで好きである、そして好きな人がこんなにいると、言い出した人、もしくは賛同者にはそう言う意図もあったのではないかなと推測している。
そもそも作品と自分は一対一の関係だと考える世代なので、そこに他者の評価をこれだけ持ち込まなければならない最近のオタク事情には歯がゆい気持ちにもなっている。
円盤の売上にしろ、映画の興行収入にしろ、そういった経済活動とは切り離された次元で作品と向き合えることがオタクの利点だったはず。自分の場合は仕事とアニメや漫画が直結していないので尚更思う。
人からどう見られるか。
それを気にしたオタクは昔から多かった。
自分が高校の漫画部に入った時、好きな漫画の話をしていると、昔からこの部の顧問をしていた教師が「今の子は漫画を好きなこと隠さなくてもいいのね」と言っていた。宮崎勤の事件で、漫画やアニメが好き=犯罪者予備軍のように思われていた時代があったからだ。
当時は、そういったものを好きな子は好きであることを必死に隠していたらしい。
その後、好きな作品は同じものを好きな同志でつながるツールになり、今度はステイタスにもなった。そして今「◯◯を好きな自分」がどう見られるか、非常に気にしている気がする。
それはかつての「オタクだとバレたら恥ずかしい」とは異なる種類の自意識だ。
ここで話を戻すと、最近の作品の感想について回る「共感」と言う概念。
アニメや漫画やゲームに限らず、ドラマでも小説でも映画でも「共感」できるかできないかが、作品の評価に非常に大きなウェイトを占めている。それは、この作品を好きな自分=この作品の中に描かれているものと自分を重ねるような経験、知識、感傷の有無を表すためのツールになっているからではないのだろうか。
エヴァがはじめて放映された時、それはアニメの中で描かれたことのないテーマを持っていた。「自分って何だろう?」「誰かに必要とされる自分になりたい」おそらくその当時の子供~モラトリアム期のほとんどが持っていた感情だと思う。ただあからさまにその部分を指し示しているアニメは、エヴァンゲリオン以外にはなかった。自分が知らなかっただけかもしれないけど。
それから15年以上経過して、アニメの主人公にはヒーローもヒロインも、神も透明人間もいる。そしてちっぽけな「私」もいる。
「共感」という目線は作品の楽しみ方の一つであって、必ずしも必要なものではないと思う。
アニメの破天荒なキャラクターに、色遣いに、動きに、音楽に、声に、私は憧れる。
他者の評価に振り回されてきている気がしたので、改めて書いておく。
何を好きか、何を知っているかでは自分の価値は変わらない。
映画ヱヴァンゲリヲンの上映後に三々七拍子をやろうと言うpostがTwitterでまわる
↓
碇シンジ役の声優が「やめてほしい」と発言する
と言う流れがあった。
(たぶん三本締めのことなんだと思うけど)
映画館で映画を観るのであればエンドロールが終わっても場内が明るくなるまで余韻に浸っていたいのがアニメオタクじゃないかと思っていたので、どうしてこう言う発想に至ったのだろうと不思議だった。
「オタクは自分が楽しければ作品の意図なんてどうでも良いのか」「作品の雰囲気を壊すなんてファンじゃない」と言う意見も見られたけど、それだけだろうか。
よく、マイナスな感想に「共感できなかった」と言う語句を見かけることがある。
そんなに共感できることが大事なのか?と思う。
共感できるできないは作品の楽しさとは全く関係ないのではないかと。
共感できるできないで作品を語ることは、泣けるか泣けないかで語るくらい無意味なことなのではないかと思う。
現に、オタクはちょっと前まで「理解されないこと」がステイタスでもあった。
万人に評価されない、作者の意図が(自分以外に)理解できない、自分には発想できない行動を起こすキャラクターがかっこいい。
自分はまさに、この世代だった。
他の人には駄作でも、自分にとっては名作だからこの良さがわからない人達が可哀想、くらいは考えることがある。
今はこう言う考えは厨二病と呼ばれたりするんだけどね。
先日のエヴァの件で言えば、エヴァはもうアニメオタクの知る人ぞ知る作品では無くなっている。アニメに興味の無い人でも観ていたりするし、とっくにアニメを卒業した人達もこの映画だけは観に行こうかなと話しているレベルの作品になっている。
だからオタクの、マイノリティであることによる優越感を満たすためのアニメでは無くなっていて、とにかく他の人より自分が「エヴァが好きなんだ」と表明したい作品になっている。
それからこれは全くの想像だけれど、このヱヴァの初回上映であればプレスの入る可能性もある。マスメディアのいる状況で、映画の上映後に三本締めや主題歌の大合唱が始まれば、この作品の影響力を見せつけられると言うもの。※ただしアニヲタのキモさも同時に見せつける結果になる諸刃。
マスメディアあるいはソーシャルメディアに対して、自分がこの作品をここまで好きである、そして好きな人がこんなにいると、言い出した人、もしくは賛同者にはそう言う意図もあったのではないかなと推測している。
そもそも作品と自分は一対一の関係だと考える世代なので、そこに他者の評価をこれだけ持ち込まなければならない最近のオタク事情には歯がゆい気持ちにもなっている。
円盤の売上にしろ、映画の興行収入にしろ、そういった経済活動とは切り離された次元で作品と向き合えることがオタクの利点だったはず。自分の場合は仕事とアニメや漫画が直結していないので尚更思う。
人からどう見られるか。
それを気にしたオタクは昔から多かった。
自分が高校の漫画部に入った時、好きな漫画の話をしていると、昔からこの部の顧問をしていた教師が「今の子は漫画を好きなこと隠さなくてもいいのね」と言っていた。宮崎勤の事件で、漫画やアニメが好き=犯罪者予備軍のように思われていた時代があったからだ。
当時は、そういったものを好きな子は好きであることを必死に隠していたらしい。
その後、好きな作品は同じものを好きな同志でつながるツールになり、今度はステイタスにもなった。そして今「◯◯を好きな自分」がどう見られるか、非常に気にしている気がする。
それはかつての「オタクだとバレたら恥ずかしい」とは異なる種類の自意識だ。
ここで話を戻すと、最近の作品の感想について回る「共感」と言う概念。
アニメや漫画やゲームに限らず、ドラマでも小説でも映画でも「共感」できるかできないかが、作品の評価に非常に大きなウェイトを占めている。それは、この作品を好きな自分=この作品の中に描かれているものと自分を重ねるような経験、知識、感傷の有無を表すためのツールになっているからではないのだろうか。
エヴァがはじめて放映された時、それはアニメの中で描かれたことのないテーマを持っていた。「自分って何だろう?」「誰かに必要とされる自分になりたい」おそらくその当時の子供~モラトリアム期のほとんどが持っていた感情だと思う。ただあからさまにその部分を指し示しているアニメは、エヴァンゲリオン以外にはなかった。自分が知らなかっただけかもしれないけど。
それから15年以上経過して、アニメの主人公にはヒーローもヒロインも、神も透明人間もいる。そしてちっぽけな「私」もいる。
「共感」という目線は作品の楽しみ方の一つであって、必ずしも必要なものではないと思う。
アニメの破天荒なキャラクターに、色遣いに、動きに、音楽に、声に、私は憧れる。
他者の評価に振り回されてきている気がしたので、改めて書いておく。
何を好きか、何を知っているかでは自分の価値は変わらない。
輪るピングドラム備忘録
2012.08.26 Sunday
ちょっと考えてたこと残しておきます(広告でそうなので)
●ジャンルについて
ジャンルにとらわれない作品ではあると思うけれど、何か一つ、ジャンルを付けるとすれば「ミステリー」
これ結構重要なことだと思いました。ジャンルが無ければレンタルショップでDVDをレンタルしようとした時にどの棚にあるかわからない。
観た人によって「恋愛モノ」「動物モノ」「家族モノ(ヒューマンドラマ)」と解釈できるけれど、公式に「ミステリー」であったことには意味があると思います。
●ターゲットについて
監督が以前、メディア芸術祭の審査委員をしてアニメをたくさん観ていた頃、ブログに「最近のアニメは誰を対象にしているのかわからない」と書いていました。
それで今回のこの「輪るピングドラム」はどこがターゲットか。
高倉家の内装や女性スタッフばかり起用していたあたりで、女性向けにしていると感じました。
アニメ以外でもそうだけど、商業作品である以上は主要なターゲット層が決まっていなくてはいけない。
先日、伊集院光氏があの花の感想をラジオで話していて賛否両論だったようだけど、伊集院氏本人が言っていたように「あの花」のターゲット層になかった、ただそれだけだと思う。「あの花」に関して言えば「Secretbase」が懐かしい年代以下。伊集院氏はZONEが活躍していた頃には立派な大人だったし、もうあの曲に対して青春を重ねたり出来ない世代なんだろう。
そういう意味ではあの花はよく出来たオリジナルアニメだったと思う。
「輪るピングドラム」もそう。
1995年の空気を知っている世代の女性。
これがターゲットという印象です。
●ペンギンについて
オールナイトイベントの際、ペンギンが何者かという荒川さんの質問に対して、監督は「何でもない」とおっしゃっていたけど、本当に何でも無かったのだと思います。
何かにつけて伏線や符号を解きたがるアニメオタクに対抗するかのような答えですが。
何でもないもの、創作物のセオリーとしての無駄、余裕。そういうものだと思います。
強いて言えばグッズとして販売しやすい記号が必要だったというところかな。
●ジャンルについて
ジャンルにとらわれない作品ではあると思うけれど、何か一つ、ジャンルを付けるとすれば「ミステリー」
これ結構重要なことだと思いました。ジャンルが無ければレンタルショップでDVDをレンタルしようとした時にどの棚にあるかわからない。
観た人によって「恋愛モノ」「動物モノ」「家族モノ(ヒューマンドラマ)」と解釈できるけれど、公式に「ミステリー」であったことには意味があると思います。
●ターゲットについて
監督が以前、メディア芸術祭の審査委員をしてアニメをたくさん観ていた頃、ブログに「最近のアニメは誰を対象にしているのかわからない」と書いていました。
それで今回のこの「輪るピングドラム」はどこがターゲットか。
高倉家の内装や女性スタッフばかり起用していたあたりで、女性向けにしていると感じました。
アニメ以外でもそうだけど、商業作品である以上は主要なターゲット層が決まっていなくてはいけない。
先日、伊集院光氏があの花の感想をラジオで話していて賛否両論だったようだけど、伊集院氏本人が言っていたように「あの花」のターゲット層になかった、ただそれだけだと思う。「あの花」に関して言えば「Secretbase」が懐かしい年代以下。伊集院氏はZONEが活躍していた頃には立派な大人だったし、もうあの曲に対して青春を重ねたり出来ない世代なんだろう。
そういう意味ではあの花はよく出来たオリジナルアニメだったと思う。
「輪るピングドラム」もそう。
1995年の空気を知っている世代の女性。
これがターゲットという印象です。
●ペンギンについて
オールナイトイベントの際、ペンギンが何者かという荒川さんの質問に対して、監督は「何でもない」とおっしゃっていたけど、本当に何でも無かったのだと思います。
何かにつけて伏線や符号を解きたがるアニメオタクに対抗するかのような答えですが。
何でもないもの、創作物のセオリーとしての無駄、余裕。そういうものだと思います。
強いて言えばグッズとして販売しやすい記号が必要だったというところかな。