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BLが好きです。わりといい年の大人です。詳細は「ごあいさつ」記事をご覧ください。
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乙武さんの騒動と児ポ法への所感
先日話題になっていた、乙武さんとイタリアンレストランの件。
非常に読みやすいコラムがありました。
小田嶋隆さんのコラムはいつも、時勢について自分がもやもやして腑に落ちていないことをすっきりさせてくれるのでよく読んでいます。

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明
人権はフルスペックで当たり前
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20130523/248527/ (日経オンライン)

乙武さんは、何度かプライベートで見かけたことがあります。階段しかない2F建のお店の2Fですれ違ったり、入り口が1段高くなったお店の前ですれ違ったり、一人でレジでお会計しているところを見かけたりしたこともあります。一人で公道を、他の人よりスピードを出して反対方向に歩く人を避けながらすいすい歩くのとすれ違ったこともあります。
もちろん乙武さんは大ベストセラーの著者であり、一般的な車椅子利用者よりは周りが手厚く補助してくれる面もあるのでしょうが、お店の階数を予約時に確認しなかったにしろ、確認はしたが手伝ってもらえると当たり前に思ったにしろ、自力で階段を昇れないということを意識せずにいられる環境というのは悪くないと思います。

自分がこの問題で気になっているのは、乙武さんが店名を具体的に出して状況をツイートしたことについて、批判的な意見の多いことです。

ツイッターというのは愚痴を吐き出す場所であっても良いと思います。ただの愚痴で終わらせるなら
「車椅子だからってせっかく予約したのに店に入れてもらえなかったムカつく!」
かもしれません。自分が見た限り、乙武さんのあの晩のツイートはたしかに怒って冷静さを欠いていました。それを、愚痴ではなく問題提起の形にしたことで話が大きくなってしまったのだと思います。

ただ、フォロワーが○人いるから具体的な店名を挙げたのはよくない、という意見にはどうしても賛同できかねます。
だって美味そうで、評判が良くて、乙武さんのツイートを見た限り雰囲気も隠れ家っぽくて素敵なお店なんだから。
自分は車椅子じゃないし、体力は有り余っているわけじゃないけれども細い階段を2Fまで上がることもわけないです。機会があれば行きたいです。
それを「影響力のある人が店名を出すことで店にいやがらせされるかもしれないんだから、有名人が固有名詞を出す際には配慮が必要」というのは、おかしい。少なくともあの文脈から、この店には嫌がらせをしても良い、なんて思考ができる人がいればその人はただ嫌がらせをしたい人です。たとえ有名人でない人のツイートだったとしても嫌がらせをします。

話はすこし逸れますが、今話題の児ポ法。
あれの問題点は表現の自由の規制ではなく、議論すべきところをずらしているところです。たとえば、小さな女の子の出ている漫画を読むことと、小さな女の子をレイプすることは全く別の事です。ロリコン漫画を読む事は読書のひとつで、レイプは陵辱行為のひとつです。それを、小児生愛者と言うカテゴリで分けてしまうのが差別です。陵辱者は強姦だけでなく傷害や略奪行為をする可能性があります。漫画を読むのが好きな人は、ロリコン漫画もファンタジーも時代ものも読む可能性があります。漫画を読む人でロリコン漫画を好む人が強姦をすることもある可能性があるから、漫画を読まないように規制しよう!としたところで、どれだけの成果が出せるだろう?
たしかに、規制しないよりした方が可能性をわずかでも減らせる。こういったことは、被害者が1人でもいなくなるのなら効果があったと思えます。
けど、実際に減らせるのは漫画を読む人で陵辱者が減るわけではないのです。
他人を殴るのが好きな人、強姦するのが好きな人、嫌がっているところを見るのが楽しいと思える人。私は、そういう人の方が危険だと思います。規制してほしいです。けど、規制しきれないのです。趣味と言う縦糸と、快感を得ることのできる行為の横糸では、横糸の方が圧倒的に長く、全ての縦糸に紐づいているため、規制するためのカテゴライズが出来ないのです。

先日の乙武さんの出来事に当てはめると、店の具体名を挙げずにただの愚痴で終わらせていれば、その店に嫌がらせをする人は減るかもしれない(店を特定しようとする人はいたと思います)、けど、嫌がらせをするのが趣味の人は減らないのです。むしろ、他の店に「この店が入店を拒否したんじゃないか」と電話しかねない。
問題は、そんな風に善意でもって店に嫌がらせをしても良いと言う思考が蔓延していることです。
そして、嫌がらせはしないけど、その思考を当たり前に受け止めている、善良な人がたくさんいると言うことだと、私は思います。

店の具体名を出したことを何とも思わずにそのツイートを読んだ者としては、それが差別かどうかの問題よりも、乙武さんが信者をけしかけた、みたいに言われていたことの方がよっぽどショックな出来事でした。
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「共感」という不自由
数ヶ月前、

映画ヱヴァンゲリヲンの上映後に三々七拍子をやろうと言うpostがTwitterでまわる

碇シンジ役の声優が「やめてほしい」と発言する

と言う流れがあった。
(たぶん三本締めのことなんだと思うけど)

映画館で映画を観るのであればエンドロールが終わっても場内が明るくなるまで余韻に浸っていたいのがアニメオタクじゃないかと思っていたので、どうしてこう言う発想に至ったのだろうと不思議だった。
「オタクは自分が楽しければ作品の意図なんてどうでも良いのか」「作品の雰囲気を壊すなんてファンじゃない」と言う意見も見られたけど、それだけだろうか。

よく、マイナスな感想に「共感できなかった」と言う語句を見かけることがある。
そんなに共感できることが大事なのか?と思う。
共感できるできないは作品の楽しさとは全く関係ないのではないかと。
共感できるできないで作品を語ることは、泣けるか泣けないかで語るくらい無意味なことなのではないかと思う。

現に、オタクはちょっと前まで「理解されないこと」がステイタスでもあった。
万人に評価されない、作者の意図が(自分以外に)理解できない、自分には発想できない行動を起こすキャラクターがかっこいい。
自分はまさに、この世代だった。
他の人には駄作でも、自分にとっては名作だからこの良さがわからない人達が可哀想、くらいは考えることがある。
今はこう言う考えは厨二病と呼ばれたりするんだけどね。

先日のエヴァの件で言えば、エヴァはもうアニメオタクの知る人ぞ知る作品では無くなっている。アニメに興味の無い人でも観ていたりするし、とっくにアニメを卒業した人達もこの映画だけは観に行こうかなと話しているレベルの作品になっている。
だからオタクの、マイノリティであることによる優越感を満たすためのアニメでは無くなっていて、とにかく他の人より自分が「エヴァが好きなんだ」と表明したい作品になっている。
それからこれは全くの想像だけれど、このヱヴァの初回上映であればプレスの入る可能性もある。マスメディアのいる状況で、映画の上映後に三本締めや主題歌の大合唱が始まれば、この作品の影響力を見せつけられると言うもの。※ただしアニヲタのキモさも同時に見せつける結果になる諸刃。
マスメディアあるいはソーシャルメディアに対して、自分がこの作品をここまで好きである、そして好きな人がこんなにいると、言い出した人、もしくは賛同者にはそう言う意図もあったのではないかなと推測している。

そもそも作品と自分は一対一の関係だと考える世代なので、そこに他者の評価をこれだけ持ち込まなければならない最近のオタク事情には歯がゆい気持ちにもなっている。
円盤の売上にしろ、映画の興行収入にしろ、そういった経済活動とは切り離された次元で作品と向き合えることがオタクの利点だったはず。自分の場合は仕事とアニメや漫画が直結していないので尚更思う。

人からどう見られるか。
それを気にしたオタクは昔から多かった。
自分が高校の漫画部に入った時、好きな漫画の話をしていると、昔からこの部の顧問をしていた教師が「今の子は漫画を好きなこと隠さなくてもいいのね」と言っていた。宮崎勤の事件で、漫画やアニメが好き=犯罪者予備軍のように思われていた時代があったからだ。
当時は、そういったものを好きな子は好きであることを必死に隠していたらしい。
その後、好きな作品は同じものを好きな同志でつながるツールになり、今度はステイタスにもなった。そして今「◯◯を好きな自分」がどう見られるか、非常に気にしている気がする。
それはかつての「オタクだとバレたら恥ずかしい」とは異なる種類の自意識だ。

ここで話を戻すと、最近の作品の感想について回る「共感」と言う概念。
アニメや漫画やゲームに限らず、ドラマでも小説でも映画でも「共感」できるかできないかが、作品の評価に非常に大きなウェイトを占めている。それは、この作品を好きな自分=この作品の中に描かれているものと自分を重ねるような経験、知識、感傷の有無を表すためのツールになっているからではないのだろうか。
エヴァがはじめて放映された時、それはアニメの中で描かれたことのないテーマを持っていた。「自分って何だろう?」「誰かに必要とされる自分になりたい」おそらくその当時の子供~モラトリアム期のほとんどが持っていた感情だと思う。ただあからさまにその部分を指し示しているアニメは、エヴァンゲリオン以外にはなかった。自分が知らなかっただけかもしれないけど。
それから15年以上経過して、アニメの主人公にはヒーローもヒロインも、神も透明人間もいる。そしてちっぽけな「私」もいる。

「共感」という目線は作品の楽しみ方の一つであって、必ずしも必要なものではないと思う。
アニメの破天荒なキャラクターに、色遣いに、動きに、音楽に、声に、私は憧れる。
他者の評価に振り回されてきている気がしたので、改めて書いておく。
何を好きか、何を知っているかでは自分の価値は変わらない。
大人になると言うことは(ただの思い出し読書感想)
成長とは、喪失の連続である。

そのことに最初に気づいたのは、高校生の時だった。
小学校の時に大好きだった本を図書館で見つけて借りて読んだが、どうにも昔ほどわくわくできない。「楽しんでいた頃」を俯瞰として懐かしむために読んでいるような心地がする。そこで初めて、自分の中のイノセンスが失われていることに気がついた。
後に幾原邦彦監督がブログで書いていたように、自分は本の中のすてきな出会いや目覚めが自分に訪れないということを、成長することで痛感してしまっており、そこに自分を重ねたりはできなくなっていた。

好きな小説と、好きな漫画の話をします。

◆金丸マキ『絶対服従』収録「夕暮れのバス」 1995年 角川ルビー文庫刊
この中に収められている「夕暮れのバス」という作品が好きだ。どれくらい好きかと言うと、今まで読んだ短編小説すべての中でも1,2位を争う作品だと思っている。
ボーイズラブなのにボーイズが全くラブしていない上に救いが無いという感想を見かける。自分の初読は高校生の時。自分が何者かになれるのではないかと思っていた頃。自分は、この話にはとても救われている。
主人公の高校生の男の子は、教師の男性のことを密かに好きだけれど何も言えるはずも無く、家に帰ると障がいをもった弟の世話をしなければいけない。母親は弟の面倒がいやで出ていった。精神的にも肉体的にも疲弊する中、教師への密かな恋心だけが主人公を励まし続ける。ところが教師は今度結婚すると言う。落ち込んでバスに乗って帰るさなか、見知らぬくたびれた様子の女性が泣いているのを見かける。
と、話はここまで。
私はこの話を読んだ時、ラストの泣いている女性を見た主人公が「自分もいつかこうして、大人になって、夕暮れのバスで泣くことがあるかもしれない」と考えるところにひどく共感した。将来のことも考えられないほど疲れ切った主人公が、何者にもなれない自分を予感するところが、当時自分の抱えていた「自分はどんな大人になるんだろう」という不安に結びついて共感したのだと思う。それと同時に、同じ人間がたくさんいるという安心にもなった。
何者にもなれないということは、他者と結び付くことでしか自分たりえないということでもある。見知らぬ人だらけのバスの中で、大の大人が誰でもない自分になって泣くということが肯定されている世界。この短い小説の中にそんな赦しの世界があることが自分にとっての救いだ。

◆石田敦子『いばら姫のおやつ』収録「東京ソーダ水」 2001年 少年画報社刊
石田敦子が自分にとって唯一無二なところは、小学校の頃に一番好きだったアニメーターが、数年経って、一番好きな漫画家になったところ。それが、アニメからの流れでも何でもなく、純粋に好きな作品をたくさん描く漫画家として好きになったこと。いつも直球のテーマをそのままで描くことが彼女の持ち味。その中でもこの「東京ソーダ水」は、痛々しいのに心を刺す棘がまぶしくてキラキラしているところが好きだ。
主人公は田舎からやってきた女の子。彼女は地元で、飛び降り自殺に巻き込まれて怪我を負った。身体的な傷は治りかけても、飛び下りる間際に見知らぬおじさんの言った「生きていても良いことなんてない」「大人になったら辛いことばかりだ」という言葉の呪縛から抜け出せず、心を閉ざしてしまう。
それで東京に住んでいる叔母のところに一時的に預けられて療養することになったのだ。 叔母は自由人で彼氏と同棲して、彼氏と一緒に主人公をとても可愛がる。主人公は、そんな叔母の姿を見ても大人になることが幸せなことだと思えない。 幸せそうに見える叔母も、大人になることが楽しいとは言い切れない。
この漫画を読んだのは大学生の頃で、自分も、大人になることが何でも手に入れられる楽しいことじゃないというのに薄々気づいてた。だからこの漫画がどう、大人になる幸せを教えてくれるのかと期待しながら読んだ記憶が有る。
結論から言うとこの作品では「大人になるって楽しいよ」と言い切れていない。私はそこに”嘘”を感じないところを好きになった。 大人になるって辛い、苦しい、悩ましい。そして、楽しいことだけが幸せの形じゃない。大人になるって幸せだねと、この漫画を思い出すたびに思う。

大人になるってどういうことだろうとこの年になっても思う。
成長による喪失に痛みを感じなくなった時、私は成熟したと言えるのだろか。

「大人になるってどういうことだろう?」とふと考えたくなったので、真っ先に思い出したこの2作品について語ってみました。
2012年10月14日 小雨 ジブリ美術館に行ってきた。
 もうかれこれ3年ぶりくらいだろうか、三鷹にあるジブリ美術館に行ってきました。
三鷹の駅からジブリデザインの可愛い黄色いバスに乗って、都内だけどちょっと木のおおい方面へ。ここは宮崎駿が外観、イメージを絵に起こしているとおりに緑に囲まれた、まさにジブリのアニメの中に登場しそうな美術館です。

この日はあいにくの曇り模様だったのだけれど、幸いなことにお天気が悪いからとチケットをとっていた14時よりも早めに入館させてもらえました。オープンからずいぶん経っているけれど、まだまだ来場者は多く、チケットも土日は前月10日の発売開始早々にとっておかないと無くなってしまいます。

入館すると受付のお姉さんの後ろで大きなトトロがお出迎え。実物大?なのかな?とにかく大きい。というか、丸い。

まずはゾートロープをはじめ、いろんなアニメの展示室。ゾートロープという、回転で絵が動くように見せる技術を利用したアニメーションが多かったです。アニメーターの描いた図をもとに模型を作り、それを何十個も円形に並べて回転させた立体のゾートロープはすごいです。これは実際に観ないと伝わらないだろうけど、とにかくすごい。トトロやメイやサツキが立体になって動いているのです。

2Fにあがるとマニア大喜びの制作室の再現。壁には一面のラフや資料となった写真が。魔女の宅急便のキキのラフがどれも可愛かったです。 個人的にジブリ作品で好きなのは一番がラピュタ、二番が魔女の宅急便。この頃の宮崎駿アニメのボーイミーツガールは、女の子の可愛さ、男の子の透明感がずば抜けて好きです。 魔女の宅急便は子供の頃はそこまででは無かったけれど、大人のいい年になってから観て中盤からひたすらボロ泣きしてしまいました。子供の頃はあのアニメの好きなところは魔法が使えるところだったのですが(自分も魔法使いになりたい!的な子だった)、今思うと、女の子なのに黒い服を着なきゃいけないところ、他の同年代の女の子がおしゃれをして男の子と遊んでいるのに働かなきゃいけないところ、とにかくキキが他の子供達と自分を比べて、拗ねて、開き直るところが可愛い。もちろん可愛らしいのが売りじゃなくて、他人と自分を比べて落ち込む人間臭いところを少女の思春期の悩ましい姿に例えて描いているところが、すごく好きな作品です。
ラピュタは、先日飲み会でも話したのだけど、パズーが40秒間で旅立つところが好きです。それまでの生活のすべてを、たった40秒の猶予でさっき出会った女の子のために全部捨て去る。それから滅びの呪文を唱える為の3分間。自分も相当ふわふわした頭の子供だったし今もあまり成長していないので、この単純明快さには憧れるのです。

ジブリ作品の売りのひとつでもあるうつくしい風景のモデルとそれが描かれるまでの資料がたくさん揃っていました。いつか必ず行ってみたいと個人的に思っていた、ハウルの動く城のモデルのストラスブール、魔女の宅急便のゴットランド島、紅の豚のアドリア海、異国の美しい風景と、一方では郷愁を誘う日本の田舎の風景。とにかくこの部屋に住みたいと思うような展示室でした。

特別展示「挿絵が僕らにくれたもの」展。 世界各国の物語の挿絵が展示されていました。挿絵から湧きたつような物語性、宮崎監督の原点が垣間見えるものです。昔のものなので相当小さい原画だと思うのですが、それを壁一面にまで引き延ばして、それでもなお緻密な筆致には驚きでした。印象に残ったのは、ロシアのカラー挿画家のイワン・ビリービン。最近やってたアニメの「つり球」っぽい鮮やかではっきりとした色遣いが、見ていてワクワクしました。

図書室「トライホークス」はジブリの原作や関連書籍もちょっとはありましたが、揃えているのはきっと、スタッフ達が子供に読ませたい本という印象。自分は以前に来た時に『肩甲骨は羽のなごり』という児童書を購入しました。

図書室の前には噂のねこバスがいたのですが、当然大人は乗れませんでした。ねこバスの行き先「めい」になっていましたよ。

ちょっと外に出て一休み。展示室や図書室でたくさんの色や造型を眺めた後に外に出ると、この日は雨が降っていて全体的に色の濃くなった緑が、アニメの世界のように続いていました。もののけ姫のあたりから、ジブリは自然の描き方が神がかってきていると思います。自分が最近の作品で特に好きなアリエッティは建物を覆うような緑の描き方が印象的で、葉っぱが生きているように見えました。展示室にもいくつか緑だけの画が飾られていたのですが、アリエッティの中の葉っぱはとりわけ力強く、生き生きとしているのでわかりました。
お土産屋さんのマンマユートの紙袋はかなりしっかりしていて、ちょっとの雨でも破けたりしなさそう。
長く使ってもらえるように材質をしっかりさせているのかもしれません。

それからここでしか見られないアニメーション。この日の上映作品は「パン種とタマゴ姫」 これも、広く言えばボーイミーツガールの正統なお話で、宮崎駿が原案から脚本から手掛けている”らしい”作品だなと思いました。ババア、タマゴ姫、そのお姫様を守るパン種。その追いかけっこが話の山場なのですが、パン種にくっついた林檎の中の青虫といい、青虫にびっくりしたタマゴ姫の反応といい、あまり詳しくは無いですが、宮崎駿っぽい作品でした。それより何よりババアの存在がまさに宮崎駿なのですけど。

写真は全館禁止なので撮っておりません。
みなさんの心の中に残してくださいとのことです。

これで1000円の入場料というのはすごいことだなと思いました。どうせなら、春や冬にも行ってみたいです。季節によって色や香りを変える植物がたくさんあります。中の絵や模型もそうですが、ジブリ美術館は建物すべてがジブリの美術作品の一つだと言えるのです。


最後に、一枚だけ撮ってきた屋上のロボットです(*‘ω‘ *)ノ






 
輪るピングドラム備忘録
ちょっと考えてたこと残しておきます(広告でそうなので)

●ジャンルについて
ジャンルにとらわれない作品ではあると思うけれど、何か一つ、ジャンルを付けるとすれば「ミステリー」
これ結構重要なことだと思いました。ジャンルが無ければレンタルショップでDVDをレンタルしようとした時にどの棚にあるかわからない。
観た人によって「恋愛モノ」「動物モノ」「家族モノ(ヒューマンドラマ)」と解釈できるけれど、公式に「ミステリー」であったことには意味があると思います。

●ターゲットについて
監督が以前、メディア芸術祭の審査委員をしてアニメをたくさん観ていた頃、ブログに「最近のアニメは誰を対象にしているのかわからない」と書いていました。
それで今回のこの「輪るピングドラム」はどこがターゲットか。
高倉家の内装や女性スタッフばかり起用していたあたりで、女性向けにしていると感じました。
アニメ以外でもそうだけど、商業作品である以上は主要なターゲット層が決まっていなくてはいけない。
先日、伊集院光氏があの花の感想をラジオで話していて賛否両論だったようだけど、伊集院氏本人が言っていたように「あの花」のターゲット層になかった、ただそれだけだと思う。「あの花」に関して言えば「Secretbase」が懐かしい年代以下。伊集院氏はZONEが活躍していた頃には立派な大人だったし、もうあの曲に対して青春を重ねたり出来ない世代なんだろう。
そういう意味ではあの花はよく出来たオリジナルアニメだったと思う。
「輪るピングドラム」もそう。
1995年の空気を知っている世代の女性。
これがターゲットという印象です。

●ペンギンについて
オールナイトイベントの際、ペンギンが何者かという荒川さんの質問に対して、監督は「何でもない」とおっしゃっていたけど、本当に何でも無かったのだと思います。
何かにつけて伏線や符号を解きたがるアニメオタクに対抗するかのような答えですが。
何でもないもの、創作物のセオリーとしての無駄、余裕。そういうものだと思います。
強いて言えばグッズとして販売しやすい記号が必要だったというところかな。
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