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こういうことにあまり触れない方が良いのかもとは思ったのですが例の拉致事件に関わる話です。
軍事的な内容についてはちょっとわからないので飛ばして、
やたら耳についた「自己責任」論について。
全くの持論ですけど、青さ(若さというとちょっと語弊があるかもしれないのでそう言います)の基準のひとつに、物事を0か1かで見るかどうかというのがあると思います。
後藤氏はシリアに渡る直前、職業柄、普通の人よりも何倍もその場所の危険さを知っており、ビデオに自ら「自己責任」だと言い残して行った。つまりは他の人に迷惑を掛けたくない、自分がもし仮に捕まったとしても助けようとしなくても良い。そのビデオがきっかけなのかはわかりませんが、最初の映像が公開されてからしきりに「これは危険地帯に渡った後藤さんの自己責任だ、身代金を払う必要はない」という意見を耳にしました。
では自己責任とはどういう意味だろう、と
goo辞書にはこんなことが書いてありました。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/95808/m0u/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E8%B2%AC%E4%BB%BB/
1.自分の行動の責任は自分にあること。「投資は―で行うのが原則だ」
2.自己の過失についてのみ責任を負うこと。
1の用例で考えると、投資に失敗して財産を失っても、それは本人の問題であって他者を巻き込むべきではない、巻き込む危険があるのであれば投資はするな。そんな感じでしょうか。
では責任とは何だろう、この場合どうとるのが適切だろうと考えましたが、危険地帯に単身渡ったことについて他の誰か――例えば湯川さんや後藤さんをその場所まで運んだ交通機関、出国を許可した職員、渡航費用を準備するにあたって協力した人(仕事上の報酬を渡した人など)に何らかの責任があるかと言われれば、自分は無いと思います。おそらくご家族や、身近な人たちはもっと、なぜ彼らを止められなかったのかと悔いているはずです。
自分が「自己責任」論に違和感を持ったのは、この「自己責任」論者の人たちは危険な地域(実際、日本政府が入国しないよう勧告している)に行った責任を、まるで「死ぬことは責任の取り方だ」というように責める言葉として使っているからでした。ましてや、きっとそこまで深く考えてはいなかったのだろうけど、「自業自得」とまで言う意見も見ました。自分はこの「自業自得」という言い方をした人がもし目の前にいたらその場で反論していたと思います。ネット上では「相手を言い負かす」ことはできてもまともに議論なんて出来ないものなので、twitterで見たそれはすぐに忘れることにしましたが。
それで、最初に書いた、物事を0か1かに分けるということなのですが、この「自己責任」論を展開している人の多くは、彼ら拉致されている人たちを忘れて何もしないか、もしくは何かをするべきかの二択で考えていたのだと思います。
個人的な意見ですが身代金は渡すべきでなかったと思います。何よりそのお金が新たな殺人の資金になるから。また、個人にはとても支払えないような額を日本人誘拐したら国が支払ってくれるという前例を作ってはならないから。表面的なところではそんな理由で、政府の身代金は出さない、という決断は支持します。
しかしこの事件に対する感情は、切り捨てるのでも寄り添うのでもなく、テロ行為のどんな理由にも与しない、しかし拉致されている人の無事を願う、それらはけして矛盾ではないと考えます。
首相が言った「テロには屈しない」「人命第一」この二つは正反対の決意です。テロに屈せず拉致された人たちを救うとしたら、自衛隊を現地に派遣してアジトを潰して救い出す、あるいはスーパーネゴシエーターを使ってテロリスト達を説得して、何の見返りも与えずに返してもらう。それくらいしか無く、どちらも現実的ではありません。「テロリストにはどんな利益も与えない」「拉致されている国民を救いたい」というふたつを矛盾していると批判するのも違う気がするのです。もちろん日本の陣頭指揮をとる政治家なので明確な指針を出すべきで、その点ではどうなのかと、どっちつかずに見えました。
敢えてそうしたともとれます。
しかしテレビやパソコンの前で状況を見守っているだけの自分達が、彼らを切り捨てる、もしくは助ける、どちらか判断する必要は無かった。ただ、無事を願うべきでした。
「こんなのは自己責任だ」
そう言った言葉の裏に、どれだけの決意があっただろう。ただ、非情なことを言ってみたかった、その言葉を使ってみたかった、自分の払っている税金の一部でもテロ組織に渡したくはなかった、自分にはそう思えました。危険地帯に自ら出掛けていった人たちが責任を取るとすれば、それは斬首されることではなく帰ってくることだったのだと思います。
少なくとも、殺されてその映像を世界中に広められて良い理由も、そうなることでとれる責任も無かったはずです。
自分は後藤氏のことをこの件まで知りませんでした。なので、昨日から急に湧いた彼のジャーナリストとしての功績や美談、モールス信号で~という信憑性のないドラマに、感動はしないし持ち上げる気にもなりません。
ただただ、お悔やみ申し上げます。
後藤氏のジャーナリストとしての功績を知る人たちはきっとこうなる前から彼がネットでバッシングをされていることに強い憤りを持っていたと思います。亡くなって、ようやくそれらから許されて彼のことを良く語っても良い風潮ができたのだとしたら、それも哀しいです。
その人がどういう人かまで0か1で語るようなことは、あってはならないと思います。